Essey

骨を漕ぐ

To Row the Bone

 床に赤く光るものがあった。    なくしたガーネットのネックレスを思い出して手を伸ばすと、飼ってい る文鳥の血の雫だった。急いで病院に連れていく。半透明な膜から滲む 鮮やかな血色で甘いさくらんぼのようだった嘴や脚も、果実の熟れる前の 真っ白さにもどっている。    ……明日死ぬかもしれない。    入院の手続きを済ませ家に帰る。風のあけくれの部屋は疲れたものの 影ばかり、窓の外のカラスも黙って飛んでいった。今日も暴風注意警報。 山と海の間にあるこのアパートはありとあらゆるものの通過点で、さっき はビニール袋さえ横切った。やるべき仕事をそのままに、流れる風に押 されたつもりで海のほうへ出た。    〝鳥の海〟と呼ばれる汽水湖では、ヒヨドリもセキレイもシラサギも夢 中になって足下をつついている。土と砂、淡水と海水のあいだの生々しく むせかえる干潟の匂いで今朝の澱んだ血がよみがえる。息が詰まって上 を向く。空高く風のサーフィンを楽しむウミネコ。高いところはいいな。    干潟の向こうに5 階建てのホテルが見える。あまりに近所で泊まるこ となど考えたこともなかった。スマートフォンで検索、オフシーズン価格、 勢いで予約する。薄暗い駐車場から見えるのは空と防潮堤と芝生だけ、 このあたりから海を見たことは一度もない。チェックインを済ませエレベー ターに乗り301 号室に入る。波の音さえ聞こえない真っ黒な窓の無機質 さに、動物病院にあった保温機を思い出す。機械の中で、文鳥は肩で息 をしながら針金のような脚で前後に揺れる体を止まり木にくくりつけてい る。セグメントディスプレイの白く光る角ばった数字が鋭く目に突き刺さ る。器内温31.0℃。防潮堤7.2m。いま文鳥と私の生存に必要とされる 数字。     防潮堤の上に海が乗っかっている!    朝日で目が覚め、窓から見えた景色だった。嬉しくなって裸足のまん まベランダに出た。鳥が背後から海をめがけて飛んでいく。私の目は今 あの鳥の目と同じ高さに在るのだ。追いかけるようにしてホテルを出て防 潮堤をかけのぼる。荒ぶる波の潮と風に舞う砂とが煙立ち、海と陸が溶 け合っていた。きれい。おもわず深呼吸をする。波飛沫と砂埃。生きる も死ぬも一緒くたになったいのちの味が体じゅうに流れ込み、咳となって 散らばった。そのとき私は少しだけ自分の命が軽くなったような気楽さを 得た。この世の土と血の巡りを忘れて、砂と骨の巡りを想う。文鳥のレ ントゲンはただただ美しかった。それはよろこびもかなしみも及ばないひ とつの所にある実感だった。むかしここにあった木造船とそっくりな雲が、 14 年前に山へ引っ越した船大工の家の方へ鳥と一緒に渡っていった。    家に帰っていつもより大きいキャンバスに向き合ってみる。      指のストローク、手首のストローク、肘のストローク    それぞれの事情でうねる線が一斉に交わるわずかな時間のたしかな証 拠。背が低かった中学時代、実家のカーペットを汚しながら体ぜんぶを つかって描いた50 号。      肩のストローク、腰のストローク、膝のストローク    おぼつかない線たちのこんなにもゆるぎないかたち。そうだ、いまわた しは春を迎えにいく途中。湿った肌を忘れて乾いた骨を漕いで描けば、 向こうからなつかしい故郷がやってくる。

Media oil on canvas