Essey
青さのかぎり
Out of Blue
2026
Out of blue 青さのかぎり あの青い生き物と出会う前、私は心底自分の体に疲れ果てていた。十二月二十三日、昼間病院に行って体の塩梅を診てもらい、回復していると医師に告げられたばかりだった。帰りに御徒町で大粒のアクアマリンを買った。 その頃、私には大きな異変が起きていた。物が大好きだったはずが、体のせいでほとほと自分が物質であることに疲れ果て、ついには物すら憎むようになっていたのだ。唯一見て元気が出るのは鉱物の無機的な光の反射だけだった。身体は主体ではなく、制御不能な物質として知覚され、肉体そのものに疎外感を抱いていた。それなのに神戸への帰りの新幹線で突然出血がきた。怖くなって医師に電話をかけたが、出血量が多く「のっぴきならないようならば」急患で病院に行きなさいということだけ。責任を取りたくないのだろう。どういう状態なのか質問をしたくて問いかけた途中で電話は途切れた。新幹線を止めて、大勢の人に迷惑をかけ、急患に行くという「のっぴきならなさ」の赤信号は一体どこからなのかわからなくて、とりあえず耐えた。ハンカチについた血が赤く、とめどなく滲み、憎かった。「くそったれ」とわざわざ声に出して自分の体を罵った。 次の日、私はいつも何か大切な気持ちになる時に行く島へ五度目の訪問をする予定だった。「のっぴきならない」状態がどんなものかわからなかったが、丸一日休んで、二日後、島に辿り着いた。夜、だるい体を引きずって地元の小さな居酒屋に向かった。閉店ぎりぎりで「何か今からでも食べられるもの、なんでもいいのでお願いできないですか?」と言うと、地元の酔っ払ったお客さんのおじさんがふたり、笑いながら手招きしてくれた。「そば!そば!あと酒」方言が強くてそれしか聞き取れなかった。冷蔵庫からお酒を一缶取って飲み始めると、おかみさんが郷土料理のそばを出してくれた。沁みる美味しさだった。さっきまで体があることにひどく憎しみを抱いていたのに、美味しいと感じる自分が少し不甲斐なかった。地元のおじさんたちは相変わらず何を言っているのかほとんど分からなかったが、いつの間にか談笑していた。そんな中でも聞き取れる言葉があった。 「泉はもう使わなくなったからな」 この島には泉が十数箇所あった。この地域の特徴的な石灰岩地帯では、雨水が地中に浸透し、炭酸カルシウム層を通過してミネラルを含む真水として湧き出るカルスト泉というものが形成される。そのような泉は生活用水や禊、通過儀礼、聖域形成に用いられることが多かった。 私はその泉が大好きだった。昼間、島を歩いていた時に、かつてぼろぼろだった石垣が綺麗な階段に変わっていて驚いた。泉もじっくり見られるようになったのかと嬉しくなってカメラを片手に海へ下ると、泉はモルタルで埋められていた。身の毛がよだつとはこのことかと思った。体中が熱くなって、怒りのようなものが込み上げてきた。私がこの場所に人生で何度も訪れたのは、この島の水が循環しているからだった。アクアマリンの煌めきはどんな都市にいてもこの泉を思い出せた。自分の体をめぐる血液と同じように、大地も生きているとわかるからここにきたのに。この強い拒否感は、循環系が断絶され、まるで自分の身体的循環も断絶されるような心地だった。私はこの水循環やエネルギーフローへ無意識に同調しているらしかった。その生態系を循環体として捉える直感的認識を断たれるのは、なんとも大きな苦痛だったのだ。 「本土のほうから水道水は引いているし、もう必要ないんだ」 そうか、海水しかなかったこの島に本土から水道水が来ている。いくら美しくたって泉はなくなる。昔のものだからといって、純粋で残されるものとは限らない。むしろここにあるのは至って実直な生活だ。暮らしているのはスマホをもった島民たち。私も刺激を求めて液晶を貪る、いずれ腐っていく一つの体だ。それでは、物にもすがれずに、生きているのも死んでいるのも、可能性も現実も、自分も他人も、境界線が分からなくなってしまった私は、このまま淀んで腐っていくしかないのか。 帰り道、酔っ払ったまま雨に濡れて光るアスファルトを歩いた。ここも昔は砂だった。島の女性、女神たちがちゃんと舞えるように男性が浜から真っ白い砂をもってきて、素足で踊れる柔らかい道だった。でもアスファルトだからといって何が変わるということもなかった。いま、現代を生きているのだからと歩いた。体が土地と直接接触する回路を絶たれ、スニーカーでは踊れる気がしなかった。 めきめき のしのし わしゃわしゃ そのとき、青い塊が道路を渡るのが見えた。二つの赤い点と青紫の体がぴたりと視界に入ったとき、私はもうなぜか泣き崩れていた。 実家でむかし飼っていた犬くらい大きなヤシガニ。半世紀は生きているだろうか。ヤシガニは雑食性で腐敗有機物や死骸も食べる陸上最大級の甲殻類だ。生態学的には分解と循環の担い手である。思えば花が咲くのは一瞬だが、腐敗のなかにいる時間の方がずっとずっと長いのだと気がつく。 もしかしたらあなたにとってこの淀んだ体や腐った血は、鮮やかな花より美しいものに見える? なぜ生きているのか、なぜ死んでいくのか、問うても問うても理解なんてできはしないこの大きなブラックホールの底にある「くそったれ」な肉体も、あなたにとっては100万ドルの夜景と等しいのだろうか。 ヤシガニたちは命を燃やすため泉へ水を飲みにいく途中だった。体液のバランスを維持するために、真水が必要だからいつも湿潤な窪地に出かけるのだ。みんな、古い星みたいな貝殻をカタカタふるわせながら、森の奥の窪みの方へ向かっていく。黙って一緒についていく。石灰岩で濾過された真水は、葉っぱが骨だけになったふかふかの腐葉土に囲まれた石垣の中で、アクアマリン色に輝いている。透明なレースのような葉は生き生きと揺れ、月明かりでもっと青白く光り、次の生命を支える準備をしている。ちょうど、生きるのと死ぬのの真ん中で、せっせと連続する物質変換をおこなっている。 光のなかでとめどなく流れる涙が、雨に混ざって、川を流れて、海へ流れた。波打ち際のそのあぶくにまた青い生き物が宿れば、いつかのだれかのもぬけの殻のカイガラかぶって、めきめき、のしのし、わしゃわしゃと、いま、ここの陸に這い上がってくる。命が循環する限界点の色。夜になると、貝殻ひとつひとつが実はじんわりと火をともしているのに気づくのだ。ヤシガニたちは命をボウボウと燃やすため、ずうっと泉の番人をしている。たとえもう誰も来なくても。 目と目が合って、私は一層私になった。壊れかけた体はみずみずしい巡りにもういちど接続される。どうやらあの青さがある限り、私の命は燃えるらしかった。